「日韓関係の摩擦・悪化」は嘘。日本と韓国(朝鮮)は、昔から一つに繋がっています。①

ニュースで目にする韓国と日本のトラブル。

「慰安婦問題」に始まり、「竹島問題」「日本海呼称問題」「仏像盗難事件」などなど‥。

定期的に騒ぎを起こしては、メディアを騒がせていますね。

最近で言うと、「徴用工訴訟問題」が、頻繁に取り上げられていました。

数日前には、「韓国海軍」の駆逐艦から日本の「哨戒機」に対して、レーダーが照射される事件が起こりました。

とても鮮明に映像が残されており、あっという間にWikipediaまで作られています。

○Wikipedia-韓国海軍レーダー照射事件

あまりにも用意周到だと感じました。

日韓関係の真実を知らない人が、これらのニュースを目にすると、

「韓国はなんて勝手な国なんだ。」

「いつも韓国は問題を起こす。」

というふうに感じるに違いありません。

今、何も知らない庶民に対して、韓国に対するマイナスイメージが、どんどんと植え付けられています。

その目的は何でしょうか。

それは、日本と韓国がいがみ合っているように演出し、「戦争も辞さない」という風潮に世論を誘導するためです。

現実に「安倍晋三」率いる日本政府は、着実に戦争に向けて画策しています。

彼らの悪だくみは、「RAPT BLOG」で明らかとなりました。

○安倍晋三・稲田朋美をはじめ緑の勢力が「第三次世界大戦」を引き起こそうとしている厳然たる事実。

そして、日本を戦争に向かわせようと画策している中心的な存在が、「生長の家」というカルト宗教団体であることも判明しました。

○「日本会議」の本体である「生長の家」は、基本的人権、国民主権、平和主義を全ての国民から奪おうとしています。

実は、この一連の「韓国」と「日本」の問題は、茶番である可能性大なのです。

「日本と韓国は仲が悪い。」

これは真っ赤な嘘です。

今回は、その証拠をハッキリとご紹介していきたいと思います。

①日本を牛耳る巨悪・「麻生太郎」は、「藤原鎌足」の末裔です。「藤原鎌足」は、「百済人」でした。

突然ですが、少し歴史をさかのぼってお話します。

日本のありとあらゆる悪事にかかわっている、悪の枢軸「麻生太郎」。

彼の血筋は、さかのぼると「藤原(中臣)鎌足」に行きつきます。

くわしくは、こちらの記事をお読みください。

○RAPT BLOG 天皇家一族の重鎮「麻生太郎」という巨悪。

(藤原鎌足は、お札の肖像画にもなっていますね。)

「百済(くだら)」とは、飛鳥時代、朝鮮半島に存在した「国」です。

「日本人」として歴史の教科書に登場する「藤原鎌足」は、現代風に言うと、「在日朝鮮人」だったのです。

彼の出自について、詳しく調べている記事を見つけました。

———————–(以下こちらから転載)

また、当時の日本と唐の国力比から言って勝ち目のない、したがって日本国を重大な危機に陥れる危険があった「白村江」に、"百済救援"という名目で、現代の人口比でいえば約200〜300万人にも上るという大軍を送ることを天智天皇に執拗に迫ったのは中臣鎌足でした。

㉛実は、その背景には鎌足の出自にまつわる謎があります。

まず、唐・新羅の圧迫を受け、崩壊した百済の君臣は囚われの身になりました。

が、鬼室福信という武将が百済王家を復興しようと立ち上がり、660年9月に使者を立て、救援とともに「人質として日本に居た百済王子・豊章(ほうしょう)を召喚し王にしたい」との要請をします。

㉜豊章は帰国して百済王になりますが、人気の高かった鬼室福信を嫌い謀反の疑いで殺害。

知将を失った百済は白村江の戦いで大敗、日本の大軍に守られていた豊章は「行方知れず」とされています。

一方、天智天皇の側近である鎌足についてのこの時期の記述が、日本書記から完全に欠落しています。

㉝このようなことを考えると、中臣(藤原)鎌足の出自についてはかなり怪しいものがあり、鎌足は”百済王・豊章”だったのではないかとの説が説得力を帯びてくるのです。

㉞ところで、鎌足が称した「中臣姓」ですが、中臣本宗家は、古代の日本において忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった海人系豪族でした。

が、物部氏とともに仏教受容問題で蘇我氏と対立したために没落、白川家が神祇伯を世襲するようになると歴史の舞台から消滅しました。

また、中大兄皇子と異母兄弟だったが、蘇我入鹿によって皇太子になった古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)は、鎌足によって入鹿が殺されるのを見て自邸に逃げ帰ったときに、

「韓人(からびと)が入鹿を殺した。私は心が痛む」

と漏らしたとの記録があります。

「韓人」とは「朝鮮半島地方の人」という意味があります。

さらに、鎌足は「乙巳の変」などの一連の改革の最大功労者であるにも拘らず、臨時職である「内臣(うちつおみ)」になったただけで、内大臣、左大臣という高位に就けず、不比等についても律令制の完成者と言われながら、最高位の左大臣にはなれませんでした。

これは「国籍条項」があったためと言われています。

———————–(転載ここまで)

<白村江の戦い>

(「蘇我入鹿」が殺されるシーンはとても有名ですね。)

「藤原鎌足」は当時、「韓人(からびと)」として認知されていました。

そして母国である「百済」を、大切にしていたことがうかがえます。

彼は日本でのし上がるも、日本人ではなかったがために、政治における最高位には上り詰めることができませんでした。

そこから「藤原家」は、皇族と結婚を繰り返し、反対勢力はどこまでも貶めて、メキメキと力をつけ、「日本の名門一族」として成り上がっていったのです。

そしてその末裔が、「麻生太郎」ということになります。

「藤原家一族」は、元祖「在日朝鮮人」だと言えるでしょう。

②現代の日本で広まっている「仏教」は、「百済」から伝わってきたものです。

日本の文化として、すっかり定着してしまった「仏教」ですが、これもまた「百済」からもたらされたものです。

総称して「大乗仏教」とよばれるものです。

例えば、「浄土真宗」や「創価学会」とつながりのある「日蓮宗」などが、それにあたります。

○Wikipedia-大乗仏教

「創価学会」と言えば、「池田大作」ですね。

<池田大作>

彼は、「ソン・テチャク」という名の「在日朝鮮人」だと言われていますが、仏教自体が「百済」から伝来したものなので、教祖が「在日」だったとしても何ら不思議ではないのです。

③「百済」滅亡後、多くの「百済人」が日本に流れてきました。そして「日本人」として生きるようになったのです。

<百済王氏の祖霊を祀る百済王神社>

飛鳥時代、日本が「白村江の戦い」で、「百済」を最大限に支援したものの、「百済」は滅亡してしまいます。

「唐」や「新羅」に支配され、奴隷になることが目に見えていた「百済人」たちは、日本に流れ込んでいったのです。

そして地位の高い人たちは、「百済王氏(くだらのこにきしし)」という姓を名乗り、日本の貴族たちと一体化していきました。

———————–(以下こちらから転載)

百済王氏(くだらのこにきしし)は、百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。

持統朝に百済王の氏姓を賜与された。

———————–

奈良時代末期には俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど、敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。

———————-

平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ厚遇を受けた。

一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇らの後宮の宮人とし、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。

———————(転載ここまで)

「藤原家」だけでなく、「百済人」はさまざまな形で日本に溶け込んでいったのです。

日本で「在日朝鮮人」の話題が絶えないのは、今に始まったことではないのです。

④「朝堂院大覚」も「百済」と深くかかわっています。

「朝堂院大覚」こと、「松浦良右」は、「嵯峨天皇」の末裔です。

○RAPT×読者対談〈第129弾〉日本は在日ヤクザに牛耳られている。(麻生太郎と朝堂院大覚と嵯峨天皇)

先ほどご紹介した記事の通り、「嵯峨天皇」は、「藤原氏」だけでなく「百済王氏」などの「百済人」と密接な関係にありました。

<嵯峨天皇>

その末裔の「朝堂院大覚」はというと、「百済王氏」が住み着いた「大阪・枚方市」出身なのです。

———————(以下こちらから転載)

朝堂院大覚/本名、松浦良右。

大阪枚方で400年続いた名家に生まれ、父方の祖父は枚方の 大地主で不動産業を営み、米相場でも成功した。

父は満州へ陸軍大尉として出兵し、帰国後は朝日新聞の傍系会社の朝日ビルディングの経理担当重役に就任。

母 は、戦前、松下乾電池(松下電工の当時の稼ぎ頭)の代表取締役専務。

乾電池事業は、母キノの父である吉田幸太郎が支えた事業だった。

同志 社中学校・高等学校を経て、同志社大学を卒業。

———————(転載ここまで)

大阪には、「百済」という地名が存在します。

そして「枚方市」には、先ほどご紹介した「百済王神社」や、「百済寺」という「百済」の名がつくものが存在します。

(「百済寺」は、現在建物の跡のみが残されています。)

———————(以下こちらから転載)

百済寺(くだらじ)は、大阪府枚方市にかつてあった寺。

天平勝宝2年(750年)頃に百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)によって建立されたと言われている。

百済寺の格式の高さや百済王氏の勢力の大きさをうかがわせるものとされる。

——

交野の地に移り住む以前、摂津国難波京にも「百済寺」「百済尼寺」があったと考えられている。

『日本霊異記』第14話に「難波百済寺」とあり、難波の「百済寺」は斉明朝(7世紀中葉)から10世紀までは存在していたと考えられている。

———————(転載ここまで)

さらに興味深いのが、「百済王神社」です。

———————-(以下こちらから転載)

百済王氏の祖霊を祭る神社である。

現在の祭神は百済国王と進雄命(江戸時代までは牛頭天王)となっている。

—–

数度の火災により百済寺・百済王神社は次第に衰退した。

後に奈良の興福寺の支配下に入り、再興が図られた。

現在の本殿は、興福寺と関係が深い春日大社の本殿を移築したものである。

———————-(転載ここまで)

なんと「百済王神社」には、「百済王氏」の祖霊だけでなく、「牛頭天王」つまり「スサノオ」と同一視される「バアル」という悪魔が祀られているのです!

<牛頭天王=バアル>

それだけではありません。

「春日大社」の本殿を移築したとありますが、この「春日大社」には、「百済」から渡ってきた、「藤原氏」の氏神が祀られているのです。

———————-(以下こちらから転載)

主祭神は以下の4柱。

総称して春日神と呼ばれ、藤原氏の氏神である。

武甕槌命 – 藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)

経津主命 – 同上(下総国香取の神)

天児屋根命 – 藤原氏の祖神(河内国平岡の神)

比売神 – 天児屋根命の妻(同上)

———————-(転載ここまで)

このように宗教的に見ても、彼らは一つに繋がっています。

そしていつの間にか「日本人」に溶け込んで、現代の政治経済を牛耳っているのです。

大昔から、「日本」と「韓国(朝鮮)」は切っても切れない密接な関係にあるのです。

次回は、「近代」における「日本」と「韓国」の密接な関係についてご紹介していきます。

さらに、今回の「韓国騒動」が「茶番」であることが、さらにお分かりいただけるでしょう。

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