今回はいろいろとうわさの絶えない天皇家について書こうと思います。

ネット上で調べ物をしていますと、天皇家についての情報があふれています。

「天皇」は「悪魔崇拝者」である。

この衝撃的な事実が「RAPT BLOG」によって暴露されて以降、「天皇」は悪人だという認識がますます高まっていきました。

そしてついには「生前退位」まですることとなりました。

○RAPT BLOG-天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。

○RAPT BLOG-天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。

○RAPT BLOG-天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。

生前退位に伴い、今後の「天皇家」では跡継ぎなどの問題が山積しています。

その中でタイトルに書いたような「皇族」たちのいろいろなうわさがネット上に流れています。

一般庶民からすると、とてもおどろくようなことです。

実子としておおやけに登場している「皇族」がまさかの「他人」だなんて。

調べを進めていくうちに、かれらにとってはそのような一般的な感覚が欠如するしかない世界で生きていることがわかりました。

昔から日本の「貴族社会」では「一夫多妻制」があたりまえでした。

「天皇家」の「一夫多妻制度(女官制度)」は、なんと「昭和天皇」が廃止するまでつづきました。

そのため、「天皇」は正妻とは別の女性、「女官」たちと性的な関係を持つのがあたりまえだったのです。

世の中では性の乱れが激しくなっていますが、「天皇家」先祖代々乱れているのがあたりまえだったようです。

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明治天皇も大正天皇も正妻の子ではない

明治・大正天皇には正妻のほかに側室がいた

◆ミカドと女官 菊のカーテンの向こう側 小田部雄次

http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/258-mikado_jokan.htm(リンク切れ)

皇室典範の第1条に、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と、うたわれているので、天皇の血族の男性しか天皇になれない。天皇制は前近代のものだから、現代社会にはなじまない。

近代社会に天皇家を生き延びさせるために、1夫1婦制を取り入れて、側室制度を廃止した。しかし、そのツケは大きく残っている。昭和天皇だった裕仁が側室制度を廃止したことは、もっと注目されて良い。

裕仁の戦争責任が、あるとかないとか云々される。

もちろん彼に責任があったのは当然で、軍部に踊らされたというのは、天皇家を存続させるための責任逃れである。

彼は日本国の裕仁ではなく、天皇家の裕仁だったから、太平洋戦争に負けたときの最大の関心事は、わが国の存立ではなく、天皇家の存続だったろう。

何もできない天皇を装っているが、裕仁は皇室制度をさかんにいじっている。

女官についても、周囲の反対を押し切って、制度改革を行っている。

女官とは、天皇家の女中さんではない。天皇のセックスの相手のことである。

 明治天皇や大正天皇には、多くのセックス相手がいた。

建前上は、ある位以上の女官しか、セックスに誘ってはいけなかったが、女性の色香に迷うには男の常である。

しかも、子供を産ませることが奨励されていれば、天皇たちは気軽に女性に手をだした。

明治天皇も大正天皇も、正妻の子供ではない。

明治天皇と一条美子の結婚には法的規定はなく、美子が入内して「女御宣下」(天皇の寝所に侍する高位の女官であるという内輪の命令)があったのみであった。

今日「古式ゆかしい」と伝えられる賢所大前での神前結婚の定式は嘉仁親王(=大正天皇)と節子の結婚以後に定まったものである。

皇室婚嫁令のみならず、近代天皇制を支えた法令の多くは明治以後に制定されたものである。P69

明治以降、天皇制を確立するために、さまざまな手段が講じられた。

とりわけ皇位の継承には、細心の注意がはらわれた。

それが側室制度で、天皇たちは多くの女性とセックスをし、多くの子供を出産させた。しかし、その多くは小さいときに死んでしまい、なかなか育たなかった。

ちなみに、昭和天皇の裕仁は、正妻・節子の子供であるが、節子は16歳で裕仁を出産している。

つまり、大正天皇は15歳の節子とセックスをした。

15歳とは、今日の中学3年生である。中学生のセックスを、世の親たちは奨励するだろうか。天皇にとってはセックスが可能なら、相手の年齢など、どうでもよかった。

天皇と肉体関係をもったことにより、女官の発言力が高まり、隠然とした権力を手にすることもあった。

また、天皇の生母であれば、発言力もました。大正天皇の母親である柳原愛子は、大きな影響力を持ったらしいし、「魔女」といわれた今城誼子は、裕仁の妻=良子をつうじて、さまざまに影響力を行使したという。
女官は、おおくが華族の娘から選ばれたが、例外もいた。

華族出身ではない女官で異色なのは、岸田俊子と下田歌子であろう。

俊子と歌子は近代の女官のなかでも特異な存在であったが、俊子と歌子の女官辞任後の生き方はまったく対照的であった。P78

大正天皇の正妻だった節子は、裕仁、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)、祟仁(三笠宮)をつぎつぎと出産した。

多くは成人まで育たないのであるが、4人とも無事に成人した。

大正天皇は、病弱だったことも手伝って、節子以外の女性とのあいだには、子供を残さなかった。

そうした事実を受けて、昭和天皇である裕仁は、側室制度を廃止した。

女官がセックスの相手をしなければ、彼女たちは住み込みの必要がない。

裕仁は1夫1婦制をとると同時に、宮内大臣だった牧野伸顕の反対にもかかわらず、女官を住み込みから通勤制に変えた。つぎつぎと宮中の改革を進めた裕仁が、国政にだけ無関心だったとは思えない。

おそらく軍部の動向も、きちんと掌握していたに違いない。

それは2.26事件の時の、彼の発言を見てもわかる。

天皇のセックス相手以外にも、女官は必要だった。

それは乳人とよばれる女性、つまり人工栄養のなかった時代、授乳をする女性である。

当時(=昭和初期)、軍部や右翼が政治的に台頭し、牧野や一木ら天皇機関説派とよばれる宮中側近を攻撃する動きが強まっていた。

なかでも、平沼騏一郎枢密院副議長は宮中側近の地位を狙っていたが、その右翼的な傾向が元老西園寺らに忌避されており、平沼は現職の宮中側近を攻撃することでその野望を遂げようとしていた。

こうした政治的策謀の渦に乳人選定が巻き込まれたといえる。P184

選挙以外で選ばれた者を、政治権力の座につけることは、決して良いことはない。

どんなに名君であろうとも、身分制の害悪からは逃れられない。

血統にもとづく天皇制は、悪い制度である。またそこに使える女官たちにも、彼女たちの人生に悪い影響しか残さない。

天皇制は、近代的な制度にはなりえない。たとえ男の子が産まれても、時代遅れの天皇制は呻吟を続けるであろう。(2002.12.13)

——————————————————-(転載ここまで)

なんと「明治天皇」も「大正天皇」も正妻の子ではないのです。

そして「大正天皇」は中学生と同年代の「正妻」と性的関係を持っています。

現代では考えられませんし、立派な犯罪です。

このような「天皇家」のタブーをテーマに映画を作っている映画監督もいるようです。

○渡辺文樹-Wikipedia

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今朝発売の日本一汚れた週刊新潮に渡辺監督へのインタビューが掲載されてた。

新潮に取り上げられたということは、いよいよ大騒動に発展なのか?

『天皇伝説』は天皇家の血を巡る物語です。

オレは10年以上前から、万世一系とは言うものの、実は天皇家は血がつながっていないのではないかと思っていました。

それを確かめるべく旧皇族などに話を聞いてみたところ、やはり天皇家の血筋は続いてきたわけではない、という確信を得たのです。

映画の組み立てとしてはあくまでもフィクションという形を取り、アクションシーンなどの娯楽要素も盛り込んでいます。

映画のあらすじ

主人公の渡辺は米軍で働いた経験のある男。内縁の妻を殺したとの濡れ衣を着せられて逮捕される。

渡辺は脱獄し、無実を証明すべく、事件の真相を追究。

そしてM資金と呼ばれる秘密資金の存在を突き止めた渡辺はそのルーツを探るため、天皇家の血脈の謎に迫る……

天皇家の問題は、映画の中で渡辺が明らかにした事実という形で挿入されています。

その事実とはまず、明治天皇が16歳の時に別人にすり替えられていること。出来が悪かったため、騎兵隊の幼年兵として活躍していた大室寅之祐という青年と取り替えられてしまったのです。

オレは寅之祐の生家周辺で聞き込みを行った。そして、子孫にあたるおばあさんから、寅之祐が幼少期に明治天皇になったと聞いたのです。おばあさんから唾液をもらってDNA鑑定したんですが、今の皇族のDNA配列に非常に似ていることが明らかになりました。

大正天皇の4人の子は皆、貞明皇后の不倫の末に生まれた子です。

まず、昭和天皇は貞明皇后と、西園寺公望の養子である毛利八郎との間に生まれた子。

秩父宮、高松宮の父親が誰なのかは分かりませんが、大正天皇でないことは間違いない。

三笠宮の父親はDNAで調べると、中川宮の第5皇子である多嘉王です。

昭和天皇もまた子種がありませんでした。

平成天皇の父親は、三笠宮です。また、秋篠宮も平成天皇の子供ではありません。

美智子皇后と入江相政・元侍従長の間の子なのです。

つまり、秋篠宮には皇室の血は一切入っていないのです。

渡辺監督が饒舌に話すトンデモ内容であるが、もしホントウなら一部のトンデモ保守の間で騒がれている「悠仁」さまを天皇にすることで男系天皇の伝統を守る、というのは跡形もなく崩れ去る。

なんせ秋篠宮家には皇室の血が一滴も入っていないのだから……。

また毛利八郎については、こんなの見つけた↓

鬼塚英昭は、昭和天皇の実父は西園寺八郎であるとする(母はもちろん貞明皇后)。

ゾルゲ事件の尾崎秀実に情報を流していた西園寺公一は八郎の息子である。西園寺八郎は、もと毛利八郎で、西園寺公望の娘・新と結婚し婿入りした。大正天皇と同級。

もし、西園寺八郎が昭和天皇の実父だとすれば(わたしは確信しているが)、ゾルゲ事件で政府の秘密書類を盗み出し、尾崎秀実に渡していた公一と昭和天皇の父親は同じである。

すなわち、秩父宮、高松宮、三笠宮よりは皇統に近い兄弟となる。(同前p423)

——————————————————-(転載ここまで)

この人物は「一水会」の「鈴木邦男」ともかかわりがあるため、あやしげな人物ではありますが、このような映画の題材にまでなってしまうほど「皇室」の闇はスキャンダラスで深いです。

上記の「インタビュー」内で語られていますが、「秋篠宮文仁親王」には一滴も「皇族」の血が入っていないといううわさが流れています。

このような情報が流れるのは、「皇太子」と「秋篠宮」の争いゆえだと考えられます。

以下のような報道もよく目にするようになりました。

○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(1)「母親だけの問題じゃない」

○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(2)「得体が知れない」との声も

○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(3)お相手の醜聞を広める理由

たがいに「工作員」を利用して悪口やスキャンダルを垂れ流している状態です。

読むだけで心がすさみそうなひどい悪口もたくさん書かれています。

以下のような系図も掲載されていました。

この系図によると「皇太子」さえも「平成天皇」と「美智子皇后」の実子ではないということがわかります。

——————————————————-(以下こちらから転載)

 

島原出身と云う女性店主が【和田迪子ミチコを検索してご覧?】と云う、徳川に殲滅された島原の乱、明治維新で徳川が殲滅されたと思っていたが、天皇家に根強く張り巡らされて健在な江戸時代のネットワーク、その強さに驚愕した、と言う。

明治維新後の天皇家が、徳川家、前田家、冷泉家などの系譜だとわかった。

浩宮➡︎徳川恒孝(嫡流)と和田迪子(前田家の血筋)

秋篠宮➡︎入江侍従長(冷泉家)と美智子妃

正田家は江戸時代徳川家の墓守(満徳寺)、美智子妃の母親は多久聖廟の娘

浩宮の娘【愛子】➡︎浩宮の種を清朝の康熙帝の血筋を引く女性に(雅子妃無関係)

万世一系では無さそうだ

——————————————————-(転載ここまで)

じっさいにいくつもの画像を見くらべてみたのですが、「皇族」それぞれに「影武者」が存在するようですので、もはやだれが本物なのかわからない状態です。

○皇太子の影武者①@徳仁親王の影武者疑惑、皇太子は少なくとも4人いる

それぞれが権力者の血筋の子供たちで、養子というかたちで「天皇家」に入り込み、その家の権力を保持しているのです。

皇太子の父親とうわさされている「徳川恒孝」は「徳川家」の当主です。

◯徳川恒孝ーWikipedia

「養子」や「影武者」という話まででてくるなら、「天皇家」は「家族」ではなく、うそで塗りかためられたただの「権力の集合体」です。

国民の税金をむさぼっている「日本の象徴」が「嘘で塗り固められた集団」というのは何ともゆるしがたいことです。

「RAPT BLOG」をとおして、日本の「イルミナティ」たちは「養子縁組」を繰り返し、戸籍上は家族だとしても、じつは血のつながりがない、というひとたちがたくさん存在することを知りました。

幼少期に養子に出されて、さらに結婚時に婿養子となり、2回も苗字が変わっているひともよく発見します。

そのため「○○は○○の子供ではない!」ということが一般庶民にとってはおどろくようなことでも、かれら「イルミナティ」にとってはごくふつうのことなのです。

実子ではなく、妾の子、という情報がふつうに出てきます。

しかし世の中にその事実が出まわれば、その風習が一変して「スキャンダル」となるのです。

そのような情報をたがいに暴露しては蹴落としあっているのです。

そんな争いのさなかにいる「秋篠宮文仁親王」の本当の父親は皇室の「侍従長」をつとめた「入江相政」という人物です。

<入江相政>

——————————————————-(以下こちらから転載)

入江 相政(いりえ すけまさ、1905年(明治38年)6月29日 – 1985年(昭和60年)9月29日)は、日本の官僚、歌人・随筆家である。

昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。

従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。

堂上華族の入江家出身。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。

柳原前光の孫である。

1985年(昭和60年)9月26日、同年10月1日付の侍従長退任を控え宮内記者会とお別れの会見。

同年9月29日午後、自宅で意識を失っているところを家人に発見される。

同日午後1時31分、搬送された慶應義塾大学病院(東京都新宿区信濃町)で、虚血性心不全により死去。享年81。勲一等旭日大綬章を受章、従二位を追贈される。

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吹上御所で入江の訃報を聞いた昭和天皇は「……えらく突然だったね」と言った。夕方、侍従があらためて報告した時は、窓に面した椅子に掛けて、振り向かずに「そうか」とだけ述べ、雨に濡れる吹上の庭を見つめていた。

——————————————————-(転載ここまで)

写真を見くらべるといかがでしょうか。

顔のパーツ、特に特徴的な「鼻」は似ていますね。

とくに若いころのひげをはやした姿は似ています。

 

 

 

 

 

かれと「美智子皇后」について以下のように書いているひともいました。

——————————————————-(以下こちらから転載)

正田美智子さん=現在の美智子皇后は聖心女子学院を卒業されている。

聖心女子学院はお嬢様が通うミッション系(キリスト教系)の学校である。

聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文学)を首席で卒業とある。

家柄や家系図を10代以上遡り、犯罪者・精神異常者・障害者・学歴・成績等を調べて問題が無いとされた家なのだから当然なのかもしれない…

現在の宮内庁に勤める女子の多くは首にロザリオか十字架かは知らないが架けてるらしい…
私如きが入れる訳ではないし、見たのでもないので何とも言えないが、ある人のブログにはそのように書いてあった。

如何に天皇や周りが美智子皇后に気を使っているかが解るような話しに、何となく納得してしまう私です。
庶民からの入皇室に皇族からの反発
やイジメが有ったのは想像に難くない。

(香淳皇后や柳原白蓮等)

そりゃ~利権をよそ者に取られたくないわな(笑)

しかし、活発で勝ち気な性格だったとされる美智子様は、泣いて堪える人ではない。

巻き返しを計ったのである。そのパートナーに選ばれたのが、後に侍従長となった入江相政(すけまさ)である。

公務員の定年は60歳であるが、彼が80歳まで侍従長を勤めれたわけは、美智子様の浮気相手であり、秋篠宮文仁(紀子さんの旦那)の父親だからだと言う噂はかなり良く知られているようである。

現在の皇太子までは血筋が保てるかもしれないが、その次が問題なわけですよね?
だって、事実なら完全に血筋が違うんだから…

秋篠宮文仁が皇太子になり、現在9歳くらいの子供悠仁が次期天皇になるなら…

だから女系天皇論なんかが出てくるわけよ…

この問題は他の所でまた書くとして、イマサラ何を言ってるんだ!なんだけどね(笑)

美智子さんは3人の子供を産んだ事になっている…

徳仁・文仁・清子である。

しかし実際に産んだのは、浮気相手の子供秋篠宮文仁だけだとこの人は言っている。

参考ブログ

http://d.hatena.ne.jp/kouhou999/touch/20130507

根拠として、性格・体格・鼻の形をあげている。

簡単に言えば、皇室の血筋を絶やさない為なら何でもアリなのだろう。

借り腹・浮気公認・子供の入れ替え・強姦・乱交…

だから表向きは近親相姦で血が濃くなっても異常者が出ないのだね。納得(笑)

——————————————————-(転載ここまで)

「入江相政」と「美智子皇后」には大きな共通点があります。

「美智子皇后」は「正田家」出身です。

「正田家」はクリスチャンの家系として知られています。

その「正田家」をクリスチャンに改宗させたのが「フロジャック牧師」という人物です。

「フロジャック牧師」は「入江相政」と深いかかわりがあり、さらには「皇室」から庇護を受けた重要人物です。

——————————————————-(以下こちらから転載)

 

ヨゼフ・マリウス・シャルル・フロジャック(Joseph Marius Charles Flaujac、1886年3月31日 – 1959年12月12日)はパリ外国宣教会所属のフランス人宣教師である。

1909年(明治42年)に来日し、結核患者及びその家族のための総合的な福祉施設を目指して活動し、東京における社会福祉活動に大きな足跡を残した。

 

<行幸啓の様子>

 

——————————————————-(転載ここまで)

「正田家」を伝道した宣教師が「皇室」にも深くかかわるようになったのです。

<<正田家 家族写真>

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■弁慶のような荒法師ことフロジャック神父

木下道雄は侍従次長を辞めた後、敬虔なカトリック信徒になっていた。

洗礼を与えたのはヨゼフ・フロジャック神父である。

財団法人慈生会の設立者として知られるフランス人神父のフロジャック神父は、一九〇九(明治四二)年に来日、戦前から乳児院、結核療養施設、診療所などを建てて社会事業に貢献していた。日本語巧みで胸まで伸びた真っ白いヒゲが特徴だった。

木下は、幼友達の妹がフロジャック神父の下で働いていた関係で、噂だけは聞いていた。

村から村へと布教の旅を続ける神父が、足に大きな裂傷を負った際、近くの農家から針と糸を借りて、自分で縫い合わせたという話を聞いて、「フランス人にも、こんな弁慶のような荒法師がいるのかと、一種の親しみを感じた」と語っている。

この親しみとともに、フロジャック神父の名前が木下の記憶に刻まれた。

宮内省総務課長時代、陛下からの推奨金推薦先として財団法人慈生会の前身にあたる「ベタニアの家」の名前があがり、木下の記憶によれば、三二(昭和七)年の暮れに弁慶の元を訪ねる。

ここで二人は初めて出会い、事業も評価され、フロジャック神父には推奨金五千円が与えられることになる。

本格的に二人がかかわり出すのは、侍従次長時代の四五(昭和二十)年十一月二五日、この日の夜にフロジャック神父は木下宅を訪れ、戦災の傷跡残る上野駅周辺の浮浪者救済のための診療施設開設と関東に酪農を主体とするトラピスト施設の必要性を説いた。

木下の日記にも「共に予の共鳴する所なり。考慮を約す」とある。

木下は早速その翌日の宮内省事務調査会でフロジャック提案を披露して、宮内省の協力を取り付けた。

 しかも、那須の名前は早くも十一月二九日に登場し、木下退官直後の四六(昭和二一)年七月には木下の斡旋で那須御料地約三百町歩が貸し下げられることが決まる。

フロジャック神父は貸し下げられた川西御料地六〇町歩を「聖ヨゼフの山」、奥まった道上下の御料地を「聖マリアの山」と名づけて、早速開墾が開始され、引揚者、復員兵の受け入れを始める。

この地には那須診療所、林間学校宿舎、精神薄弱児のための光星学園(現マ・メゾン光星)などが次々とつくられていく。

この御料地貸し下げの背景を見ておこう。

木下によれば、フロジャック提案を昭和天皇に話したところ、昭和天皇より「助けてあげなさい」と言われ、それがきっかけで林野庁との話し合いもつき、貸し下げることになり、成績によってはこれを払い下げることまで決まったとしている。

興味深いのは一九三四(昭和九)年に侍従となり、侍従次長、侍従長として半世紀余にわたって側近を務め、宮中生活最後の休日に急死した入江相政もフロジャック神父と交流していた。

この入江もクリスチャンだったとする説もあるが、現時点では事実かどうか確認できていない。

『入江相政日記』(朝日文庫)にヨゼフ神父として登場するのは、四六(昭和二一)年三月十九日この時入江はフロジャック神父と会食している。

 木下と入江の口利きもあっただろうが、昭和天皇も積極的に支援したことは間違いない。これを順に追っていこう。

フロジャック神父は四六(昭和二一)年十二月十九日に天皇皇后両陛下に進講する。カトリック宣教師が単独で拝謁したのはこの時初めてと言われている。

この時、入江日記にはフロジャック神父が「大変色々申上げて面白かつた」とある。

四七(昭和二二)年九月二日に木下道雄が拝謁しているが、おそらくこの直後に行われる両陛下の那須巡行の件でお願いでもしたのだろう。

 五日後の九月七日、入江日記には「夕狩の慈生会に行く。フロージヤアク老が大変な元気で何かと案内してくれる。例によつて愉快といつたらない。」と書かれている。

 翌九月八日にも両陛下は慈生会を訪れている。

フロジャック神父は、進駐軍やフランス大使館員や大工を一人ずつ引き合わせた後、「私は日本人以上の愛国心を持つて居ります。

一生懸命に致しまして必ず立派な国に再建致します、云々」と語る。

入江はこの時の様子を「フランス人らしい上品なユーモアの連続で非常にお楽しませした」と書き記した。

四八(昭和二三)年もフロジャック神父は二度にわたって両陛下に拝謁し、この年には高松宮、三笠宮も慈生会施設の視察を行っている。つまり、皇室あげてフロジャックの事業を後押ししていたのである。

■弁慶神父「会心の傑作」とは

皇太子の結婚の儀が行われたのは五九(昭和三四)年四月十日、その年の十二月十二日、フロジャック神父は帰天。

「わたしは貧しいひとびとの友であった。

わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。

思召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」との遺言を残した。フロジャック神父には勲四等瑞宝章が贈られ、昭和天皇より祭資料を賜る。

この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。

その中には、軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。

そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。

フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。

美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね

 これが何を意味するのかは、木下が一番よく知っている。その翌年一九六〇(昭和三五)年七月二日、朝日新聞社講堂では「フロジャック神父を偲ぶ集い」が行われた。

この時壇上には、すでに敬虔なカトリック信徒になっていた木下道雄の姿があった。

この時の木下の「フロジャック神父を思う」と題する記念講話は、『フロジャック神父の生涯』(五十嵐茂雄、緑地社)におさめられている。その四二五ページから引いておきたい。

神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。

皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と期待との熱きものがあったのではないかと思います。

 「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。

フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。

文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。

上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。

 一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。

このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。

また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也、文藝春秋他参照)。

 弁慶が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。

明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。

『フロジャック神父の生涯』のとびら裏にはこんな言葉が飾られている。

最後の握手皆様によろしくとみ声細く

    仰せありしも悲しき思ひ出

                正田きぬ

——————————————————-(転載ここまで)

じつは「皇室」は「カトリック教徒」で固められている、と語るひともいます。

——————————————————-(以下こちらから転載)

そもそも皇室はキリスト教なのですよ

まず、意外なところから説明しますと、皇室神事に携わっている式部職(雅楽奏者など)は渡来豪族の「秦氏(秦河勝)」の末裔(東儀家など)が代々務めていますが、彼らは皆クリスチャンです。

つまり皇室神事はクリスチャンたちが仕切っているのです。

彼らの先祖秦河勝はユダヤ系の血を引く景教徒(古代東方キリスト教徒)だったようです。

そのこと(ルーツが原始キリスト教であること)は一族で代々伝わってきたようです。

現在、皇室神事の式部職クリスチャンたちは都内の名門教会数か所に分散して属しています。

また、上記の式部職だけでなく、皇室職員・皇室メンバーの大部分がクリスチャンであることは公然の秘密なのです。

歴代の宮内大臣(宮内庁長官)、侍従長、書稜部長など各種部門の長などがクリスチャンであることは公開情報としても有名です。

次に、中世(戦国時代)にキリシタン大名として歴史に名を残した領主たちの末裔が現在はクリスチャンとして皇室の要職に就いています(例:前田利家の末裔で前田家当主の人など)。

さらに、近世では幕末の大名の「最後の藩主」たちには禁教令が解ける以前に熱心なキリスト教信仰を始めていた大名が多く、廃藩置県の後は皇室に入って要職に就いています(三田藩の九鬼氏など)。

昭和天皇の即位後初代の侍従長珍田伯爵は元外務次官でかつメソジスト派の牧師でもありました。

その他の歴代侍従長もクリスチャンが多いです。

女官長に至ってはこの40年以上クリスチャン・リレー状態です。田島宮内庁長官、宇佐美宮内庁長官などもクリスチャンでした。

そして現在は、たとえば、現職の川島侍従長はカトリックで、国際機関で活躍のカトリック重鎮の緒方貞子氏といとこ同士、渡邊前侍従長は聖公会クリスチャンで明治元勲の大山巌元帥の末裔。

で、皇室へ嫁ぐお嫁さんはキリスト教系の名家からというのが不文律になっているようです。

(美智子皇后:カトリック名門の正田家、雅子妃殿下:妹たちはいづれもカトリックの洗礼を受けている、三笠宮信子妃殿下:カトリック名門の麻生家で麻生前総理の妹・・などなど)

で、再度古代に目を向けると、秦河勝は伊勢神宮をはじめ皇室ゆかりの神社の多くの創建にも関わっていますので、皇室神道は古代東方キリスト教がオリジナルであると推定できます、古代東方キリスト教とキリスト教発祥の地の連絡は中世に途絶えているので、皇室メンバーは西方キリスト教(カトリックなど)の人を次々に迎え入れているというのが明治以降の状況であると思います。

よって、結論は皇室は「日本で最も濃くて長い歴史を持つキリスト教信仰の家」であり、秋篠宮眞子さまが国際基督教大学にご入学なさることは「あまりにも自然なこと」だと推定できるということです。

——————————————————-(転載ここまで)

ちなみに上記に書かれている「キリスト教」というのは、本来のただしい「キリスト教」ではなく、悪魔崇拝者によって乗っとられてしまった、にせものの「キリスト教」です。

「RAPT BLOG」では「キリスト教」が悪魔崇拝者によって乗っとられた経緯について詳細に書かれています。

○キリスト教は悪魔崇拝者によって内部から破壊された。その歴史の詳細について。

○キリスト教プロテスタントも悪魔崇拝者に乗っ取られている可能性大です。「日本基督教団」は在日・反日勢力と同一体でした。

「天皇」は年間たくさんの「神道儀式」をおこないますが、じつはクリスチャン(カトリック教徒)で固められているというのです。

表向きは「クリスチャン」だとしても裏の顔は「悪魔崇拝者」です。

かれらは「権力」「名声」さえ自分の手元に入るなら、悪魔をも拝み、他人の子も利用する。

「フロジャック」という人物が「皇室」に入り込んだのも、権力獲得の手段の一環だったのではないでしょうか。

「正田美智子」が「皇后」としてのし上がることができたのも、このような宗教的な背景もかかわっているのです。

今回「皇太子」や「秋篠宮」が実子ではないといううわさの裏には「悪魔崇拝」と権力争いが渦巻いていることがわかりました。

「皇太子」に権力を保持させたい勢力と、「秋篠宮」に権力を握らせたい勢力が存在するのです。

いずれにせよ、このようなひとたちがいつまでも「国の象徴」であってはなりません。

今後さらに調べを進めて書いていきたいと思います。

 

 

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