「日韓関係の摩擦・悪化」は嘘。日本と韓国(朝鮮)は、昔から一つに繋がっています。②

(日本統治下の「朝鮮」のこどもたち)

前回の記事では、今メディアで騒がれている「日韓問題」が「茶番」である証拠を、いくつかご紹介しました。

日本と韓国が一つに繋がっているという証拠があまりにもたくさんあるので、いくかのシリーズに分けていきたいと思います。

⑤日本の歴史を大きく動かしてきたあの人もこの人も。「歴史」の授業で習った日本の重要人物の多くは、「在日朝鮮人」でした。

現在Twitterでは、これまで明らかになっていなかった真実がどんどん明かされています。

私たちが「日本人」として教わった、歴上の人物の多くが「在日朝鮮人」またはその血を引いているのです。

「藤原鎌足」に続き、なんとあの「豊臣秀吉」までもが、「在日朝鮮人」だったのです。

彼と共に栄えた「千利休」も、「在日朝鮮人」だったという説があります。

○利休は朝鮮人?日朝友好促進大田区議員連盟・公明党古山まさ子議員の茶会の愚

このように、日本で大きく栄えた人物の中には、多くの「朝鮮人」が存在します。

古代の「朝鮮半島」は、いくつかの国に分かれていました。

そして663年に起った「白村江の戦い」以降、滅亡した「百済」から、多くの「百済人」が日本に渡来してきたのです。

祖国が滅亡してしまった。

それは生き残った「百済人」にとっても、もともと「在日」として日本で暮らしていた「百済人」にとっても非常に屈辱的であったに違いありません。

以下の画像は、現代に遺された「百済」の遺跡です。

2015年に、「世界遺産」に登録されました。

<扶蘇山城>

<百済の第25代王である武寧王の墓>

(日本の「古墳」にそっくりですね。)

生き残った「百済人」たちは、奪われた祖国「百済」「朝鮮半島」を取り戻そうと画策します。

歴史上の「戦争」を紐解くことで、彼らの「朝鮮半島」に対する並々ならぬ「執着心」が見えてきます。

⑥「日清戦争」は、「朝鮮半島」を守り、独立させるために行われました。

古代から受け継がれてきた「百済人」の血統。

彼らは、皇族や権力者一族と「政略結婚」をくりかえし、「閨閥」と呼ばれる一大勢力を築きました。

その子孫が、現代の政治家、有名人たちにあたります。

近代において、日本は大きく成長を遂げます。

「在日朝鮮人」たちが大きく権力を握る中で、勃発したのが、「日清戦争」です。

<日清戦争における朝鮮軍>

「日本」が「清」と戦争をした理由が、以下になります。

私が以前調べたときと、Wikipediaの内容が少し変わっていました。

前の方が分かりやすく表現されていますので、そのまま転載します。

———————-(以下こちらから転載)

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。

——-

1894年(明治27年、光緒20年)、朝鮮国内の甲午農民戦争をきっかけに6月(5月)朝鮮に出兵した日清両国が8月1日(7月1日)宣戦布告に至った。

日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は、「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した

三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の『大人のための近現代史』(東京大学出版会、2009年)の言い方では、朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。

それに対して近代的な国際関係に入った日本国は、朝鮮を中国から切り離そう、独立させようといたします。

いわば朝鮮という国の国際的な地位をめぐる争いであったということ」となる。

———————-(転載ここまで)

「日本」は「清」から「朝鮮」を守り、独立させるために戦争をしたのです。

そして日本は戦争に勝利し、「日清講和条約」の中で、「清」に「李氏朝鮮」の独立を認めさせました。

戦争の目的はいくつも考えられますが、最も大きな目的が、「朝鮮」の独立だったのです。

日本は朝鮮を植民地にするのではなく、独立をうながす政策をとりました。

このように「日本」を動かしたのは、日本の権力者たちの中に紛れていた「在日朝鮮人」たちでした。

この戦争を主導した「外務大臣・陸奥宗光」も、「百済人」の血を引いています。

<陸奥宗光>

———————-(以下こちらから転載)

15年(1844年)8月20日、紀伊国和歌山(現在の和歌山県和歌山市吹上3丁目)の紀州藩士・伊達宗広と政子(渥美氏)の六男として生まれる。

幼名は牛麿(うしまろ)。

生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子・伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫である。

伊達小次郎、陸奥陽之助と称する。

国学者・歴史家としても知られていた父の影響で、尊王攘夷思想を持つようになる。

———————-(転載ここまで)

「陸奥宗光」は、「駿河伊達家」=「紀州伊達家」の出身です。

○Wikipedia-紀州伊達家

「紀州伊達家」は、「藤原不比等」(藤原鎌足の次男)を祖とする「藤原北家」から出ています。

<藤原不比等>

「藤原鎌足」は、前回の記事でご紹介した通り、「元祖在日朝鮮人」でしたね。

彼の血族である「陸奥宗光」が、「日清戦争」で、「朝鮮」が独立できるように主導したのです。

しかも、「宗光」の幼名は、「牛麿」といいます。

「牛」は「百済人」が崇めていた、「牛頭天王」を連想させますね。

そして、当時の日本の総理大臣であった「伊藤博文」は、これまた「朝鮮人」の血を引いています。

<伊藤博文>

彼は「山口県 田布施町」出身で、「在日朝鮮人」のネットワークに組み込まれているのです。

くわしくは以下の記事をお読みください。

○RAPT BLOG 日本が朝鮮人に支配されているという証拠。「田布施システム」こそが朝鮮人と金融ユダヤによる日本支配の始まり。

彼は「韓国」に対して、手厚い保護を施しました。

近隣の国とは言え、他国にここまでするのか?と、疑問を抱くほどにです。

———————-(以下こちらから転載)

明治38年(1905年)11月、第二次日韓協約により韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任した。

以降、日本は実質的な朝鮮の統治権を掌握した。

伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。

また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていた。

近年発見された伊藤の明治38年(1905年)11月の日付のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて京都大学教授の伊藤之雄は「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。

実際に、この文言は「第二次日韓協約」に盛り込まれ、調印された。

伊藤は韓国民の素養を認め韓国の国力・自治力が高まることを期待し、文盲率が94%に留まっていた韓国での教育にも力を注いだ。

1907年4月14日、韓国に赴任する日本人教師達の前で「徹頭徹尾誠実と親切とをもって児童を教育し裏表があってはならないこと」「宗教は韓国民の自由でありあれこれ評論しないこと」「日本人教師は余暇を用いて朝鮮語を学ぶこと」を訓諭した。

また明治40年(1907年)7月、京城(ソウル)にて新聞記者達の前でも「日本は韓国を合併するの必要なし。韓国は自治を要す。」と演説していた。

———————-(転載ここまで)

「伊藤博文」は、文字を書くこともできなかった「韓国」の人たちに教育を施し、日本語を強要するのではなく、日本人の教師に韓国語を学ぶようにと指示していたようです。

現在使われている「ハングル」は、日本統治時代、日本政府が朝鮮人たちに教え、広めて今に至るようです。

「伊藤博文」率いる「日本政府」の政策や言動からは、「韓国」に対して、「親しみ」や、故郷への「執着」のようなものを感じますね。

しかし「伊藤博文」は、はじめは「日韓併合」を否定していたものの、意見を覆し、「日韓併合」へ動き出しました。

そしてあっけなく「安重根」の手によって、殺されてしまいます。

その後の「韓国」は、日本統治下にあったものの、これを機に大いに栄えていきました。

日本で暮らしていた「在日朝鮮人」たちにとって、故郷が栄えることは、悲願であったにちがいありません。

以下の画像は、日本統治時代の「韓国」の様子です。

日本で生活していた「在日朝鮮人」や「百済人」の子孫たちが、一度滅亡してしまった母国の領土を取り戻し、日本で手に入れた権力とお金を使って復活させた。

そのようにも見てとれます。

歴史的な「戦争」は、日本のためではなく、「朝鮮」のために行われたのです。

実は、日本が「朝鮮半島」を守るために行った戦争は、これだけではありません。

次回は「日本」と「韓国(朝鮮)」の深いつながりを「戦争」という観点から、さらに紐解いていきたいと思います。

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